1)ケミカルであるということは、つまるところ常に化学反応であるということである。
2)ケミカルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。
1)ケミカルであるということは、つまるところ常に化学反応であるということである。
2)ケミカルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。
1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。
2)デジタルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。
しかし、本が読まれるときの面は、様々にある。机に平たく置いたり、寝転んでさかさまになったり、斜めになったり、現実としての書物は自在に動く。重力とともにある人が本を読むとき、人の重力感と版面の上下方向は、ほとんど一致していないのだ。そして、本のなかの重力と、読み手が受けている重力は、それぞれ存在しているにも関わらず、「ないもの」として了承される。
同じことが、写真についても語ることができる。「めくること」という暗黙の了解は、写真の画像の重力と、それをめくっている手が受けている重力を完全に無視しているから、成り立つ。写真を見ている人は、「画像のなかの重力」と「画像という面の重力」を同時に見ることができない。どちらかを見つめれば、片方が消える、地と図の面が入れ替わるようだ。同体でありながら片側しか姿をあらわさないことで、「平面を繰る」という官能を、本と写真は共有しているという。
さらに、荒木経惟や森山大道の写真集を分析することで、「写真のなかの重力」を感じ取る。レイアウトやDTP、電子写植の現場からの検証を経て、ユニークな結論に達している。曰く、「本とは、テクストを世界から隔離させつつ、世界へと再着陸させるための装置なのではないか。書物が着地しているからこそ、読者はテクスト空間にあらためて入っていける」というのだ。
そして、ページや写真という平面は、「表現された重力」を湛える場で、メディアとは、「表現された重力」を享受させる回路なのだという結論に到達する。わたしが日常世界から受ける重力から隔離されつつ接触する面が、本のページなのだ。