Without Photographs

1)ケミカルであるということは、つまるところ常に化学反応であるということである。

2)ケミカルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。

3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。

Thursday July 2, 2009

1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。

2)デジタルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。

3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。

Thursday July 2, 2009
なにやったって写真だし絵画だ、というのが僕の見解
Wednesday June 10, 2009
写真の不幸な所は技法の自由度の面が絵画に比べて狭かったこと。絵画で言えばみんなが似たような筆で似たような絵の具で似たようなタッチで描いている状態なわけで、どうにも差別化ができず、写真は説明的(つまりしょーじき白と黒の比率などでは差別化が図れないので、思想が込められていなければ皆が「崇高な写真だ」とは思わない。前が行き止まりになって腐りだした20世紀的芸術発想)か、モチーフ自体をショッキングなものにするしかなかった。今もそういう状態は続いている。
Wednesday June 10, 2009
ぼくがカメラ雑誌なんかで気に入らないのは、「自分だけの写真」とか「あなたらしさを大事に」とかいう、あれ。これ、要するに「自分探し」じゃん。なんでわざわざカメラ抱えて自分探ししなきゃならんのよ。そんなこというから写真撮れなくなっちゃうんでしょ。カメラ雑誌がわざわざ撮れなくする呪詛吐いてどうする。
Wednesday May 13, 2009
今回のワークショップのルールは、「ずっとひとつのモノだけ撮る」「好きなもの撮るの禁止」「きれいな写真撮るの禁止」などとしました。何撮ったらいいか分からなかったら、ぼくが決めてやる!あるいは人の真似をする。だいたいそういうアイディアレベルのオリジナリティなんてくそくらえなんですよ。とにかく延々撮ってみることだけに意味がある。
Wednesday May 13, 2009
U2のボノのアフリカ支援のキャンペーン記事の中にご覧のキャプションとともに、杉本博司氏のジオラマの写真が掲載されていた。
Monday May 11, 2009
どんな写真でも、森山大道のプリントそっくりに仕上げるPhotoshopのアクション(あらかじめ登録した一連の操作を自動的に実行するバッチ)作れそうだ
— (via kulbit)
Monday May 11, 2009
杉本博司の使う同語反復的な構造は、確かにいまやデジタルデータ化した写真の基本的性質になってしまったからです。そしてデジタルデータは決して骨董化しない。オブジェになりはしない。かっての写真もすべて複製されデジタルデータによってアーカイブ化されるようになりつつある現在それは確かです。反対にデジタル写真化は、従来の銀塩フィルムによる写真を、おしなべて、すべて単に銀塩フィルムという物質的特性によって、杉本同様の骨董的な価値に変えてしまった。現在写真美術館と呼ばれる機関が収集しているものはすべて、こうした写真である。写真はもはや骨董になったというのはこういう意味でしょう。杉本に関わらず、ゆえにそれは高い値段がつく。
 反対に写真がなお情報として(何か固有の出来事を刻み込んだ)価値あるイメージたろうとすれば、ネット上を無料に伝播、複製されつづけていく宿命を甘んじて受け入れるほかない。信憑性はそのことによって確保されるほかないのではないか。かって写真のみの持つ特権だった「特定の瞬間の刻印」という属性───信頼性をなお確保しようとするならば、それはこうしてデータが変換され電送される、その瞬間の時間の刻印(たとえばタイムスタンプと呼ばれるもの)によってのみ、かろうじて確保されるようなものになってしまったからです。それでも、なお写真が、かって特権的に保持していた特権的ステータス──特定の瞬間の唯一の刻印を保持しようとすれば、撮られた瞬間に(たとえば携帯で)、すぐさま他の場所に電送され複製されなければならない、そういう段階に来ているようにも思えます。
Monday May 11, 2009
私(浅田彰)はむしろ杉本博司を最高度に評価しつつその地点で徹底的に否定したつもりだし、杉本博司もそう受け取っているでしょう。「杉本博司の写真なんて写真じゃない」と言い捨てて最低点で批判するより、「それは写真の死体だが見事な死体であることは認めざるをえない」というふうに最高点で批判するほうが、礼儀正しくかつ辛辣だというのが、私の考えです。ついでに付言すれば、いわば、中平卓馬は記憶を喪失しつつも満身創痍で生きている、杉本博司は「精妙な死体」である(シュルレアリストの用語をリテラルに転用するなら)というのが、写真の現在に対する私の見方だと言ってもいいかもしれません(むろんごく一部だけを見ての話ですが)。エッセーそれ自体だけ読むとき、「死体」という部分より「見事な」「精妙な」という部分だけが強調されていると読めるとすれば、私の書き方に問題があったということでしょうけれど……。ともあれ、私ごときが何を言おうと杉本博司の商業的成功にはほとんど影響を与えることはありません。それは「日本的ミニマリズムのもっとも洗練された表現」として、欧米の日本趣味に合致し、圧倒的な成功を収めた。いま日本でそれが遅まきながら逆輸入されただけのことでしょう。
Monday May 11, 2009
私が許せないなあと思うのは、杉本氏を肯定するか否定するかという次元のことではなく、写真の終焉および世界の出来事の終焉を本当にそう思っているのかということと、仮にそうだとしたとしても、あの杉本氏の作品が、本当にその幕引きに相応しいと思っているのかという意味においてです。
Monday May 11, 2009

しかし、本が読まれるときの面は、様々にある。机に平たく置いたり、寝転んでさかさまになったり、斜めになったり、現実としての書物は自在に動く。重力とともにある人が本を読むとき、人の重力感と版面の上下方向は、ほとんど一致していないのだ。そして、本のなかの重力と、読み手が受けている重力は、それぞれ存在しているにも関わらず、「ないもの」として了承される。

 同じことが、写真についても語ることができる。「めくること」という暗黙の了解は、写真の画像の重力と、それをめくっている手が受けている重力を完全に無視しているから、成り立つ。写真を見ている人は、「画像のなかの重力」と「画像という面の重力」を同時に見ることができない。どちらかを見つめれば、片方が消える、地と図の面が入れ替わるようだ。同体でありながら片側しか姿をあらわさないことで、「平面を繰る」という官能を、本と写真は共有しているという。

 さらに、荒木経惟や森山大道の写真集を分析することで、「写真のなかの重力」を感じ取る。レイアウトやDTP、電子写植の現場からの検証を経て、ユニークな結論に達している。曰く、「本とは、テクストを世界から隔離させつつ、世界へと再着陸させるための装置なのではないか。書物が着地しているからこそ、読者はテクスト空間にあらためて入っていける」というのだ。

 そして、ページや写真という平面は、「表現された重力」を湛える場で、メディアとは、「表現された重力」を享受させる回路なのだという結論に到達する。わたしが日常世界から受ける重力から隔離されつつ接触する面が、本のページなのだ。

Friday May 8, 2009
写真が持ってる価格形成力なんてたいしたことないし、マーケットにおける演出方法なんて参考にならないでしょ。近代写真史とか少しでも勉強して言ってる?って感じ。そもそもどこまでを射程に話をしてるんだかも定かではない。http://tinyurl.com/c9hzvg
Monday May 4, 2009
100年後のことなんてわかるわけないから、ナンセンスなんだけど、おれがそう考える根拠は、彼はオリジナルだから、という点につきる。オリジナルなものが評価されるとは限らないが、100年後の人が残すに値すると考えるものはやはりオリジナルなものだろうし、200年後ならなおさらだ
Monday May 4, 2009
なんか森山大道や北島敬三でも(だから)オリジナルのネガや場合によってはプリントって残ってないんだな。出版された写真集も絶版だし。で、本をスキャンしたりプリントをスキャンして再制作してるわけだけど、そういうのやっぱあんまりよくないんじゃないか。
Monday May 4, 2009
Next Page »